チャイナタウン

国連人口基金の発表で、世界の人口が70億人を突破することを発表しました。人口推計を国別に見ると、1位が中国で13億4800万人、2位はインドの12億4200万人といいます。中国人が一斉にジャンプすると地球が動くといいます。これは冗談ですが、地球規模で考えると中国人の人口には目を見張るものがあります。2013年1月21日、中国国家統計局が最新の中国大陸部人口統計データを発表した数字がまたすごい。2013年1月1日現在、中国の人口は 1,3540,400,000人(13億5404万人)。一人っ子政策で、政府が人口規制政策を1979年から始めたのにもこの人口です。政府が人口規制するのもどうか?と個人的に思いますが、そこは社会主義の国なのでそういう政策を政府が発動して法規制までしています。効果は出ているようで、これだけの人口ですが一人っ子政策効果で現在の中国本土では少子化が進行しているようです。

これだけの人口を抱える中国だけに、当然ながら巨大マーケットとして世界から企業が中国に乗り込んでいます。今の小・中学生は英語を勉強するのは当たり前ですが、これからはますます中国語が必要となってくるのでは。と思います。中国語は公用語として中華人民共和国・台湾・シンガポールの公用語です。そして、世界各国にいる華僑・華人たちの間で話されている言葉です。中国語を母語とする人は約12億人、そして第二言語としても約2億人が使用しているといわれいます。その言語を話す人たちは、世界最大で国連における公用語の一つになっています。ギネスブックによれば「現存する世界最古の言語」です。

英語検定があるように、中国語検定もあります。認定団体は、財団法人日本中国語検定協会で1981年から始まりました。 正式名称は中国語検定試験で、累計受験者数60万人、合格者数18万人です。日本国内では、中国語能力を測る指標として使われることも多く、全国54箇所(海外では北京・上海・シンガポールの3箇所)と受験会場も多く、年間5万人が受験しています。この中国語検定の資格適用は日本のみで、国際的な知名度は低いです。

漢語水平考試(中国語: 汉语水平考试、拼音: Hànyǔ Shuǐpíng Kǎoshì 、略称:HSK)という中国政府機関である教育部の認定試験があります。この資格は、中国をはじめとした世界各国において中国語力の証明として通用します。中国の大学では外国人留学生に対して、HSKの一定スコアを求めています。中国語を母語としない学習者(外国人以外に華僑や中国国内の少数民族も含む)が対象で、1級から6級まであり、数字が大きいほど上級です。試験問題はリスニング(聴力)、読解(閲読)、作文(書写)の3パートから成り、総得点の6割が合格ラインとなっています。

中国語を学んでいない人達も、「チャイナタウン」は観光地でもあるので一度は行ってみたいと思っているのではないでしょうか?!または、中華街で中華料理を食べたい!など「チャイナタウン」はとても身近な存在です。

中華街ですが、英語では「Chinatown チャイナタウン」、中国語では 唐人街といいます。中華街は非中国人地域における華僑・華人の街のことで、他には南京町などと呼ばれています。今、南京町(Nankinmachi)という名称を使用しているのは、日本の神戸の中華街のみで、南京町商店街振興組合(日本神戸市中央区)が登録している商標となっています。日本の三大中華街は、横浜中華街・南京町・長崎新地中華街です。「中華街」といえども、日本の中華街でも中華街の出す雰囲気はまったく違うので、近くに訪れた際には是非中華街にも足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

中華街で大きなものは北アメリカや東南アジアに多く見られますが、ヨーロッパやオーストラリアでも拡大中の中華街が見られます。

中華街の特徴は、関帝廟(※)など中国民間信仰の宗教施設を地域的な中核としています。そして、同郷会館や中華学校、中華料理店、中国物産店などの施設が集まっています。中国各地で中国語の方言の差が大きいため、出身地が違うと会話も成り立たない例も多くあるので、同じ方言を話せる同郷人を中心とした結束力がとても強いです。中華街に住む中国人を出身地別に見てると、20世紀前半までは海南島を含む広東省出身者が多く、次いで福建省出身者でしたが、最近では福建省出身者が増加していて、さらに上海や台湾出身者も増えています。たとえ同じ省の出身者といっても、例えば広東省の広東語(広州方言)、台山語、潮州語、客家語はお互いに会話が成り立たないほど差が激しいために、別々のコミュニティーが形成されることが多く、その結果同郷会も分かれています。同様に、福建省でも、福州語、興化語、閩南語、客家語は通じないため別の同郷会が形成されています。

横浜中華街について

横浜中華街は、神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在しています。1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史があります。1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていました。華僑の出身地は広東省が比較的多いのですが、中国各地に分散してしています。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差して、各路地には、当該地の出身者が多いです。所在地である中区の中国人人口は6000人を超えています。この人数は中区で登録されている外国人の約4割にあたる人数です。約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があります。日本では最大の中華街で、東アジア最大の中華街となっています。

横浜中華街は、地方から東京方面へ観光旅行に来る際に、横浜中華街に行きたい!と思っている方が多いのではないでしょうか。いろいろなお店の店先で大きな肉まんや焼き栗が売られ、週末などは、まっすぐ歩くことが難しい状態になっています。そんな混雑しているなか、大きな肉まんをほおばっている姿の人達で溢れます。いったいこの通路に何人いるんだろう?!と一瞬頭がよぎるほど、とにかくものすごい人手です。あちらこちらのお店で行列ができていて、中国風雑貨のお店やパンダの置物など、子供も喜ぶグッズのお店があちらこちらとあり、店先では商売熱心な売り子さんが「焼き栗おいしいよ!ほら!食べて!」とすごい勧誘です。この焼き栗のすごい勧誘に打ち勝つにはかなりの勇気が必要かもしれません。

1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住しました。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多数しめていました。その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていきました。これが横浜中華街の原型です。初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれています。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くありませんでした。1872年(明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていました。

1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまいますが、戦争が終わり、1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けてはいましてが、居留地外にも住むことを許されました。袁世凱に追われ日本に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けていました。ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではありませんでした。例えば1921年(大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒。中華料理店にいたっては、わずか5軒でした。1910年(明治43年)の『名誉鑑』では有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年(明治33年)以降一挙に中華料理店が増えました。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化しました。そして、欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていくことになりました。1930年代には完全に復興し、賑わいを取り戻しました。1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町でまず目に入るのは料理店となり、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとされています。1934年(昭和9年)7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介しています。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多くなりました。やがて戦後の復興期に横浜港は賑わい、香港との往来も復活しました。戦勝国である中国からの物資に恵まれ、1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば中華街で営業していた飲食店は96軒へと増えていきました。1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになりました。。1972年(昭和47年)に日中国交正常化が実現した年に横浜中華街発展会協同組合が発足。ハードウェア、ソフトウェア面での整備が進められたことで日本人が多数来場するようになり、観光地として発展していきました。牌楼門は1989年(平成元年)に建替えられ「親仁善隣」を掲げる現在の「善隣門」となりました。

南京町について

南京町は、神戸市中央区の元町通と栄町通にまたがる狭いエリアの通称で、正式な地名ではありません。南京町商店街振興組合の登録商標でもあります。東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねています。。「南京町」という用語はかつて中国人街を指す一般名称でした。しかし、そのほとんどは戦後に改称したため、現在では事実上神戸のこの地区のみを指す固有名詞となっています。南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名前の門があり、北は元町商店街につながっています。神戸にある南京町の肉まんは横浜中華街のようなちょっとした子供の顔並みの大きさのものではなく、小龍包です。この小龍包は肉汁がたっぷり。一口かるく齧って、肉汁をすすらないと、美味しい肉汁がこぼれそうになるぐらい肉汁たっぷりです。アツアツの小龍包をフハフハと食べます。小龍包で有名なお店が南京町の中央にあり、朝から大行列です。なんでも早くから買わないと売り切れてしまうようで、朝早くから並んでいる人達は気合い満々。なんでも以前買えなかったから今回こそは!と思っているようです。お店の名前を知らなくても大丈夫です。とんかく並んでいますから。

現在在住の華僑の人々は横浜華僑6000人に対して神戸華僑はその倍近い1万人を超えているといわれていますが、横浜中華街と比べると神戸南京町は規模が随分と小ぶりです。実際に生活の場でもある横浜中華街と違って、神戸の南京町には居住者は少ないため、純然たる商業地となっているためです。関帝廟や神戸中華同文学校などの華僑関連施設は山手に点在しています。実際の神戸華僑の居住地は、鯉川筋、トアロード、北野町などであり、神戸の有名な中華料理店の大半も南京町ではなく三宮など市内中心部に拠点を置いています。

これは、神戸では南京町が居留地ではなく雑居地に開かれた結果でありますが、また同時に神戸華僑の人々が他の地域に比べて日本人社会と良好な関係を築いてきた証拠ともいえるでしょう。神戸では、古くは呉錦堂に代表されるように事業に成功した者が多く、華僑といえば「商売上手で裕福な人が多い」と認識されてきた為、民族的対立も比較的少なく日本人社会との良好な関係を築いてきたといえます。そのため、戦前の一時期、南京さん等の言葉が侮蔑的に用いられた事はありましたが、南京町という名称は既に世間に広く認知されているとして戦後も名称を変更する動きもありませんでした。(横浜と長崎では、中華街に改称)。

近年では、春節祭(旧正月)などの主要な行事に、多くの日本人も参加しています。その当日は、多くの市民や観光客が集まり、南京町のみならず神戸の重要な行事にまでになりました。関西地方の地域ニュースでも毎年おなじみの光景です。また、最近では、経済発展著しい中国への関心の高まりで華僑子弟の多くが通う神戸中華同文学校に入学を希望する日本人子弟も急増しています。

長崎新地中華街について

長崎県長崎市新地町に形成された中華街です。南北250メートルの十字路には長崎市の姉妹都市である福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねています。中華街の四方には中華門が立てられ、町はアーチ型のイルミネーションで飾られます。毎年春節時には湊公園でランタンフェスティバルが開催され、大勢の観光客で賑わいます。表通りは人通りが多く華やかで比較的規模の大きな店が多いのですが、裏町(うらちょう)と呼ばれる路地には入り口も目立たず人もほとんど通らず店舗も小規模なものをわずかな数だけ設けるスペースしかありません。

長崎という土地柄、修学旅行で訪れた人も多いのではないでしょうか?もちろん、長崎新地も修学旅行の制服姿の学生たちがたくさん訪れます。そして、長崎といえば「ちゃんぽん」ですが新地中華街では「ちゃんぽん」発祥のお店もあります。大きな有名店がいくつか並んでいますが、ちょっとした路地に入るとまるで香港映画と見間違えるような景色に一遍します。香港マフィアがでてくるんじゃないか?!と錯覚するような風景で、よるになるとギラギラしたネオンが余計そのような気分になるのかもしれません。女性ならば香港マフィアに追われるヒロインに浸れるかもしれません。

新地中華街は、江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められていたため、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住んでいました。その当時の長崎の人口は7万人であったので、いかに華僑が多かったかがわかると思います。(ちなみに、オランダ東インド会社が存在した18世紀まで、オランダ船が来航していない期間に出島に住んでいたオランダ人は約15人)。その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されましたが、1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成しました。この地域が新地と呼ばれることになりました。その後、江戸幕府は鎖国政策を辞めたことにより、1859年長崎港は国際開放されることになり、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになりました。これが現在の長崎新地中華街です。

※関帝廟(かんていびょう)は、関帝(関羽・関聖帝君・関帝聖君)を祀る廟。孔子を祀る孔子廟(文廟)に対比させて、武廟(ぶびょう)とも呼ぶ場合もあります。

関帝廟の本殿は中央に関羽を祭り、右側に小説『三国志演義』で養子の関平(史実では実子)、左側に同じく『演義』に登場する配下の武将周倉の二神をそれぞれ祭っています。

関羽は、信義や義侠心に厚い武将として名高くまた『演義』での普浄の逸話などから、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、信仰を高め、また後の王朝によって神格化されていきました。その関羽を祭ったほこらが関帝廟の始まりである。

また、関羽は(塩湖で知られた解県の出身である為)塩の密売に関わっていたという民間伝承があり、義に厚いとされる事から商売の神として祭られました。この事に起因して、そろばんの発明をしたという俗説まで生まれました。そのため世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛する様に。とその居住区に関帝廟を立てています。そのため世界中の中華街などで関帝廟を見ることが出来ます。

中国語にはざっくり大きく分けて、7つの方言があります。1 北方(ほっぽう)通称 北京語(使用人口9億人) 普通語の基礎 2 呉(ご)通称 上海語(使用人口8千万人)方言色が強い 3 粤(えつ)通称 広東語(使用人口8洗面人)古代中国語の特徴を残す 4 閩(びん)通称 台湾語(使用人口6千万人)台湾で使われている 5 湘(しょう)通称 湖南語(使用人口3千万人)毛沢東の母国語 6 客家(はっか)(使用人口3千万人)衰退傾向 7 贛(かん)通称 江西語(使用人口3千万人) 客家語に近い 中国には少数民族が55あると言われるので、方言の個数は事実上不可能です。

北京語に代表される北方語を基礎として若干の改訂を加えた普通話を標準語としていますが、同じ中国語であっても、先に述べた方言は、それぞれ異なる言語で、かけ離れているために、かつては北京人と広東人では会話が通じなかったほどでした。しかし、教育と放送などの普及によって、若年層には普通話を話せない者は少なくなり、更に、深圳、珠海などの経済特区では省外からの人口流入が激しくなったために、広東語が解らない者が多数派になりつつあるのが今の中国となっています。

イギリスの植民地だった香港では、北京語と共に広東語および英語も公用語となっています。実際現在も北京語を使用する人は少なく、1990年代の初めの頃までは大陸から移住してきた人達を除いては北京語のできる人たちはほとんどいませんでした。1997年の主権返還をきっかけに北京語熱が高まり、北京語を使う人達も増えています。

チベット、ウイグルなどの各少数民族はそれぞれの固有の言語も使用していますが、公用語として使われているのは北京語です。政府は少数民族の言語を尊重する姿勢を示しながら、中学校以上の高等教育は原則として少数民族の言語は使用せず、北京語のみで教育を行うことや、ウイグル人に対しては子供を漢民族地域に居住させて北京語で教育しているため、北京語を普及させる政策を取っています。

世界最大の人口を擁する国家の中華人民共和国ですが、約13億人という人口がどれだけ多いのかというと、19世紀末の世界人口(13-15億人と推計)、または、現代の西ヨーロッパ(約4億人)とアフリカ(約10億人)の合計に匹敵です。本当に中国人全部が一斉にジャンプすると、地震が起こってもおかしくない!と思えるぐらいの人数ですが、実際の人口はもっと多いと考えられています。一人っ子政策で人口抑制されているため、子供は戸籍上では夫婦一組に対し一人しか持たないとなっていますが、農村部など働き手が欲しい地域では、密かに産んだ子供が戸籍外で生まれ、成長しています。こうした戸籍を持たない子供たちのことを「黒孩子」(ヘイハイズ)と呼んでいて、戸籍がないため当然ながら国民として認められていないため、学校教育や医療などの行政サービスを受けることができないといった状況にあります。2010年に中国国家統計局が行った人口調査では、戸籍を持たない人の数が総人口のおよそ1%にあたる約1300万人に及ぶといわれています。

どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。政府がきちんと人口を把握しきれていない背景には、一人っ子政策における賞罰の明確性が挙げられます。一人っ子の時には政府から様々な恩恵が得られるのに対して、二人以上の子どもを持つと「両親ともに昇級・昇進の停止」、「学校への優先入学権の剥奪」、「各種手当ての停止」などのとても大きな待遇差があります。罰金もあり、平均年収の3~8倍程度と言われていますので、15~40万元程度(日本円200万~500万)ぐらいでしょうか。金額的にもかなりの負担となっています。罰金もそうですが、二人目になるとかなり罰として厳しくなるので、二人目以降の子供の出生登録をしないという事態が起こっているのです。そして悲しいことに、中絶も当たり前のように行なわれているそうです。

漢民族の伝統に従うと、男子が親の面倒を見ることになり、、特に農村部では肉体労働を積極的に手伝ってくれる男児の出産を希望する農民が多いために、妊娠時に性別検査をして、胎児が女子の場合は中絶手術を行うケースが多いのです。結果として、男女比が顕著に偏っています。21世紀に入り、一人っ子政策で生まれ育った「80後」(バーリンホウ、1980年代に生まれた人)が成人に達していますが、男女比(男性が女性より3000万人以上多い)がいびつなため、男で結婚できない者が急増しているのが、新たな問題として持ち上がっています。

最近、中国のメディアを賑わせているのが、「紅いコーリャン」などの作品で知られる中国映画界の巨匠、張芸謀(チャン・イーモウ)監督(61)が「一人っ子政策」に違反して7人の子供をもうけたと中国メディアで報じられています。中国共産党機関紙の人民日報によると、「事実なら、1億6000万元(約26億円)の罰金を科される可能性がある」というもので、26億円・・・というすごい金額に改めて驚きます。

言語を北京語へ共通化を図っている中国政府ですが、中国の民族はどのようになっているのでしょう。中国の最大の民族集団は漢族で人口の92%という圧倒的なパーセンテージを占めています。その他の55の少数民族が残りの8%を占めています。少数民族のなかではチワン族(1,600万人)、満族(1,000万人)、回族(900万人)、ミャオ族(800万人)、ウイグル族(700万人)、イ族(700万人)、モンゴル族(500万人)、チベット族(500万人)、プイ族(300万人)、朝鮮族(200万人)が比較的大きな民族集団です。中華人民共和国では、漢民族だけでなく、これらの中華人民共和国国内に居住する少数民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定していて、中華民族は一体であるという意味合いを持たせています。

中華人民共和国の民族の分類は、中華人民共和国政府が実施する「民族識別工作」によって決定されるため、各少数民族が自分たちが別の民族だと思っていても、同じ民族にされたり、違う民族にされたりすることがしばしば起こっています。また、「未識別民族」も存在しています。

中華人民共和国では、少数民族の民族的アイデンティティの確立は「一人っ子政策」からの除外で成立させています(ただし、最大の人口を持つチワン族は政策の対象で、不妊手術や中絶手術を強制することも行われており、広西チワン族自治区では暴動も起きています)。漢民族以外はさほど重視されておらず、基本的に「中国化」政策を取っています。たとえば漢民族の歴史は全国のすべての学校で教えられるのですが、各少数民族の歴史は「中国史」の一部として、学校で教育されています。政府には国家民族事務委員会が設置されているため、中華人民共和国の民族政策を統一的に管理しているといえるでしょう。